無料-
出会い-
花-
キャッシング
エッセー 学校における環境音楽の意義を考える
このエッセーでは、1年間の研究を振り返って、1教員の立場から、学校における環境音楽の意義について考えます。
「HRの場の雰囲気」が大きな影響を持ち、素直な生徒ですら、崩れた雰囲気のHRにいると崩れた態度を示すようになってしまうことを、我々教員は経験上よく知っています。
教員がいくら基本的生活習慣や人間の行うべき道(道徳や倫理等を含む)を説諭しても、生徒の側に正義や倫理や、教師その人を馬鹿にするような雰囲気があった場合、あるいは教員の指導にしたがう生徒を揶揄するような雰囲気があった場合、教員の努力は実を結ばないのです。もし生徒にある程度学力があり、教師の望むことを理解でき、それにあわせてその時限りの言葉で表現できる力があれば、きわめて「道徳的な回答」を教師に対してすることができるわけです。
これらの場合教師の教育活動(心の教育)は、生徒にはとどきません。生徒が打算(怖い先生に怒られるから・先生には逆らっても仕方がないから・今これこれの行動をすることは自分の進路にとって不利であるから)で行動する場合、表面的にはともかく、「心の教育」は成功しているとはいえないのです。生徒を要領のいい生徒に育てることもある次元では教育かも知れませんが、本当の意味で生徒に「心の教育」をするには、言葉による指導だけでは足りないと考えます。
わたしは定時制生徒と12年間つきあってきて、彼らの心身の状態と行動の関係についても関心を持ってきました。そこで学んだことは、人はストレスに負けているとき問題行動をおこなうのであり、心身がストレスでゆがんでいるとき、行動は非効率的となり、環境からのいい影響(例えば教師や親や友人の助言)をうけいれられず自分でうち消してしまうのです。
条件反射として善悪を理解させることも大切です。理屈はともかく、差別やいじめはいけないんだと小さい頃から素直に考えるようになることも必要だと思います。ただ高校時代では、このような無条件で反射的な行動は学習しにくくなります。また中学生・高校生にもなれば、「遅刻が良くないことだ」とか、「教師に暴言を吐くのはいけないことだ」とかいうことは「知識としてはわかっている」わけです。多くの問題行動は理屈・知識ではわかっていながら発生しているのです。
生徒には現実を正しく観るまっすぐな心が必要です。自分の状態を正しく観る強い心も必要です。そして感じたことを適切に表現する力が育ち、またその機会が与えられなければなりません。生徒のそのような表現に対し、きちんと向き合う・聞いてあげる周りの人(教員や生徒や親)の態度も必要です。そのような人との交流なくして道徳的な心情は育ちません。他者がわからないで、人間としてのルールやマナーといっても、形だけのものになります。
ここで生徒が過度のストレスを克服し、平穏な内に生活することの意義が見えてきます。平穏でなければ自己肯定感は育ちません。きわめて低い自尊心では自分を高めようという気持ちが起こりません。交流の中で相互理解が育たなければ、他者を尊重することや相手を認めることも困難です。
生活の場であるHRにおける環境整備は、心と身体の両面で生徒を支え、かつ生徒同士の人間関係の成り立ちを支え、良好で肯定的な雰囲気を促進することをねらいとします。
学校やクラスにおいて、生徒や教員の個々人の思いや感情や行動がそれぞれ影響しあいます。スムーズに個人の影響が人に及び、よい影響というか素直な反応が返ってくるかどうかは、お互いの関係がうまくいっているかによります。関係性ができる前においては、特にその場の雰囲気の影響が大きいといえます。関係性ができればまた雰囲気もできてきます。個人間の関係性と場の雰囲気は、お互いに密接な関係があります。個人の好みや嗜好が関係性を規定する面もあるし、個人の経済的状況が関係性を規定する面もあります。しかし、3年間環境音楽を実践した経験からいえば、場の雰囲気が個人の関係性に与える影響も大きなものがあります。
勉強しようという雰囲気がなかなか形成されない学校では、各個人がさまざまな生活の「よどみ」を持ち込まざるを得ない状況があります。公私の区分ができないのです。そのため、その「よどみ」を流して断ち切り、成長する場としての学校らしい雰囲気を生徒に提供するために、環境音楽が果たす役割があるように考えます。
例えばこのようなことです。体育の授業の後、一般に生徒はかなりざわついています。このようなとき、教室での授業のための準備が必要です。また学校に登校してもちっとも勉強に気分が向かないし準備ができていない生徒がいます。登校しても学校で生活する気持ちが整わない生徒がいます。先生の話を聞く気持ちにならないままの生徒もいます。このような生徒たちに対し、教室の環境を調えることで、学校生活への準備をしてもらう必要があると考えます。準備は教員がするのではなく、生徒がするものです。その準備のきっかけを、環境音楽を設定することで作ることができるのではないかと考えます。
相互理解やコミュニケーションの成立が困難な状況においても、音楽は非言語的なコミュニケーションの回路を造ります。ですから環境音楽は、場の雰囲気を変え、非言語的な刺激(うながし)により、硬直化した人間性を揺さぶり、ある場合は癒し、結果として学校にかかわるあらゆる領域で、出会いと対話を広げる可能性を持っています。
コーラスをしている人々の呼吸はしだいに同調してきます。「同じ曲がその場に流れることで、呼吸を合わせるのと同じように、皆の気持ちをある程度落ち着いたようにあわせることができないか。」そういうことを考えています。なぜなら音楽はその場にいる人を共振し、同調させる力を持つからです。この力は当人が意識すると否とにかかわらず人に及んでいます。
この同調については、アメリカのコーネル大学助教授のミッチェル・ゲイナ−が、『音はなぜ癒すのか』(無名舎)の中で、人間同士の同調の研究を紹介しています。
「人間関係における同調化現象については厳密な研究がおこなわれている。ボストン大学医学 校の科学者、ウィリアム・コンドンは、日常的な場でも同調化が生じていることを発見した。た とえば授業中に、教授の脳波と、その教授の講義をきいている学生たちの脳波とが一致してくる という現象などがおこるのである。コンドンはまた、ごくふつうの会話をしているふたりの人物 の脳波が一致してくるという、おどろくべき現象も発見している。おもしろいのは、脳波の同調 化現象をおこしたときの被験者たちが、ロをそろえて「たのしい会話だった」といっているとい うことだ。たぶん相互理解、よろこばしいコミュニケーションなどが同調化の条件になるのだろ う。
コンドンは被験者たちの会話を通常の倍の速度で映画に撮影し、そのフィルムをスローモーシ ョンで上映しながら分析をおこなった。講演の場面では、演者の話をきいている聴衆のからだの うごきが完全に一致していた。「演者のスピーチにあわせて、聴衆が同時におなじうごきをする ことが観察された」とコンドンはいう。「これも同調化」の一形態であるとおもわれる。という のも、四八分の一秒というみじかい時間のあいだでもタイムラグがまったくみられなかったから である。これは人間のコミュニケーンョンに普遍的な特徴らしく・・・・外国人にもおなじ現象 がみられた」
ゲイナーは音楽を使った治療も併用している医者ですが、彼は「治療の場で、治療者と患者の間でおこなわれる同調化が治療を促進する要因の一部です。」旨のことを書いています。音楽による共振・同調によって、人間関係が豊かになるのです。
音楽は環境を改善するでしょうか。
個人の音楽聴取では、生育歴や好みにより音楽の振動を素直に受けいれないこともあります。環境音楽でも受け入れられない可能性はあります。環境音楽の刺激がその場の生徒の集合意識にとって強すぎる場合は、場に緊張感が漂います。その場合は、拒否されないように方法を改善します。
今回の私の研究のアンケートでは、「教室内の雰囲気をみて考えると、朝の音楽は、学校で生活することによい影響になる」と、A校では34%、B校では25%の人が答えています。悪い影響があると答えた人は、A校で1%、B校で3%でした。好意的な評価は私の予想より多い数字でした。アンケートに答えた人では、音楽に気がつかない人が多いのですから。このことから、環境音楽を流すことにより長期的には、生徒の気分に余裕ができ、教員の言語的指導が受け入れられやすくなり、生徒間と、生徒と教員との関係性も改善する可能性が見えてきます。
といいますのも、100人の生徒に同じ知的理解や判断(1日2時間は家で勉強することが将来のためになる、等)をしてもらうことはかなり困難ですが、音楽は非言語的でダイレクトに100人の脳(その人の意識)に伝わります。環境音楽はダイレクトに個人の意識に伝わるわけではないですが、私たちの気分の転換や心身のリフレッシュを自然のうちに(個人で気がつかないうちに、非意識的に)もたらし、生活にリズムをもたらします。
気分の転換とは、私生活に向いている個々の生徒の意識を、共同の勉強や学校生活に適合するよう転換することです。その気分の転換の方向性と深さと永続性について、教員のフォローが必要であると思います。もし教員が場の集合意識を壊したりしなければ、生徒たち個人の社会性を弱くしたりしなければ、教員が場の環境をよくしようとするならば、環境音楽は教員の教育活動を支えることになるでしょう。教員は仕事として、場の雰囲気をつかむことや、それを改善する方法を研鑽しなければならないのではないかと考えます。
過去の強いストレスに打ち克つことは、個人の努力だけではたいへん困難ですが、個人の意識を支え包み込む場の雰囲気(集合意識)が整ってくれば、その場にいるさまざまな人間の社会性が引き出されて、個人は問題克服に向けて力を発揮するようになります。他の面からいえば、個人が集団と同調し、環境から力をもらい、よい方向性に押し出されるのです。
生徒一人一人をよく理解しつつ言葉による指導は成り立ちます。ところが生徒一人一人のことは知ることができないのが、問題が多発する学校における生徒指導の実際の状況です。信頼関係がなければ、指導は「やらせるーやらされる」磁場の中でのひと工夫でしかありません。環境音楽を活かすとは、生徒を一群としてとらえたときの、その一群が醸し出す雰囲気をどのように教員がつかみ、学校に適したように誘導する・あるいはそのきっかけを作るかということです。
また、環境音楽を活かそうとしてかける人は、音楽の効果を信じて音楽をかけた方が、場の雰囲気にいい効果が出るように思います。意識も共鳴・同調するから、「環境を改善する」というはっきりした意識を持って始めた方がいいようです。ただしそれを押しつけては逆効果です。
学校の環境をよくすること(安全であり、人間関係を持ちやすく、成長の意欲を表現しやすい環境がよい)は、教員達が主導して、生徒たちとつくる責任があると考えます。高校生の問題行動の多い学校では、これが学習指導・生徒指導にまさるとも劣らない大事な教員の仕事なのです。
教員は生徒の学ぶ環境を整えようと気をつかい、生徒が全体としてスムーズに行くように音楽を活かすことができます。教員は環境に敏感でなくてはならないのです。教員が環境をよくしようと配慮しようとすることが大切なのです。
目次に戻る
トップページに戻る
[PR]動画